1960(昭和35)年の広島市大須界隈の写真を見た時、そこに馬車が写っていたことに少々驚きました。市内中心部はさておき、周辺部では、1960年代半ばまで、馬車が現役で活躍していたのです。
西﨑洋紙店に永年勤務し、西﨑紙販売の常務を務められた服部輝雄さんは、その回想の中で、「昭和20年代の末までは、紙の配送に馬車を使っていた」と話しておられます。
「入社当初は、紙のこととお得意先について覚えるために、配送の業務を担当させられました。馬車と人力に頼る時代でしたから、配送の仕事は、それは重労働でした。その後、事務に配属されたのですが、当時(昭和34〜35年)の西﨑洋紙店は、社長の他、営業が4〜5人、事務が3人、配送が10人程度、合わせて20人ほどの規模でした」(服部さん談)。
30年以上にわたって西﨑和男に仕えた服部さんには、いくつもの忘れられない思い出があります。西﨑洋紙店が比治山から商工センターに移転する際、服部さんはコンピュータを含む物流管理システム構築の責任者に指名されました。無事、移転が完了した後、和男は服部さんにこう言ったそうです。
「服部がようがんばってくれた。でも社員みんなの前で服部一人だけに礼を言うわけにはいかないからな」。
また、挨拶や社員への訓示の原稿を書くと、和男はしばしば服部さんに「ちょっと読んでくれ」と言ったそうです。「西﨑会長には、読む人、聞く人にちゃんとわかってもらえる文章にしなければ、といつも心がけておられました」。
即断即決、という印象が強い和男ですが、実はこのような細やかな心遣いの人でもあったのです。
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