以前、復員した和男を広島駅で出迎えたのが、小学校時代の恩師、児玉秀一氏であったことを記しました。その後、さまざまな資料にあたる内、児玉氏の「肉声」に出会えたので、ここに引用します。
「小笠原さん(当時、内政部会計課)から、『印刷をやれ』と言われたんですよ。まあ、印刷のことは少し知っていたから、『よし、軍の印刷機は全部おれにまかせろ』と。印刷関係は被服廠が玖村(安佐北区)へ持っていたんですよ。玖村の機械と人間を一緒に引き受けて、被服廠の接収はわしが任されたんですよ」。
これは『戦後50年 広島県政のあゆみ(1996年発行)』に掲載された対談の一節です。児玉氏の肩書きは、元県議会議長、県印刷局長、弘報委員会事務局長となっています。
注目されるのは、「印刷のことは少し知っていたから」という発言です。恐らく児玉氏の家族、あるいは係累が、印刷業かその関連の事業を営んでいたのではないかと思われます。氏が2回目の県議会議員選挙(1955・昭和30年)に立候補した時、新聞に掲載された略歴に「紙器業」とあること、さらに氏が後に広島県印刷業協同組合の顧問に就任していることも傍証となります。
このことから推察されるのは、児玉秀一氏は単に西﨑和男の恩師というだけでなく、和男の父、西﨑登と印刷、あるいは紙器業の関連で親交があったのではないか、ということです。
和男は60年記念社長挨拶の中で、次のように述べています。「この時ふと父の言葉を思い出しました。『お前たち子どもらには財産は残さない。しかし信用という大きな財産は残してやる』と言う言葉でございます」。もし筆者の推察が正しければ、挨拶する和男の脳裏に、「父・登が、児玉氏との間に「信用」という財産を築いていてくれたからこそ、再起の糸口がつかめた」という万感の思いが去来したことは想像に難くありません。
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