【乗船者名簿】
1,出港地:ナホトカ
2,出港年月日:記載なし
3,上陸地:舞鶴港
4,上陸年月日:昭和23年6月14日
5,船名:英彦丸
6,名簿登載者:西﨑和男 29歳
(階級)中尉
(職業)軍人
(在留年数)4.2
(所属部隊)関東軍独立気球隊
(収容所)マルチヤンスク
(行先及び原籍地)広島県広島市廣瀬元町135
(終戦前位置)満州●南
西﨑和男が3年近くに及ぶシベリア抑留から解放され、日本に帰国した時の記録です。
大陸からの帰還者たちは、通常、引揚者寮に2〜3泊し、厚生省舞鶴引揚援護局でさまざまな手続きを行いました。帰還した軍人・軍属には階級などに応じて当座の生活資金が支給されました。当時の日本の狂乱的なインフレを知らぬ帰還者の中には、1000円を支給され、ひと財産築けたとぬか喜びする人も数多くいたそうです。また援護局内には「郷土室」が設けられ、戦後の郷土の復興状況、物産観光資料などが展示され、全国都道府県の駐在員たちが引揚者の相談にあたりました。
和男も引揚寮で3日間を過ごした後、東舞鶴駅から京都、京都で山陽本線に乗り換え、広島の帰路ににつきました。
引揚列車が広島駅に着いたのは、1948(昭和23)年6月19日、午前1時40分のことでした。
—汽車がホームに入ってきた。改札の外で、数十名の人々が息を殺し、汽車を凝視する。鉄のきしむ音が駅舎に響き、汽車が止まった。
顔を煤で真っ黒にした、ぼろ切れのような男たちが次々と下りてくる。
3年近くに及んだ過酷な収容所生活に耐え、故郷にたどり着いた男たちと、彼らの帰りを待ち続けた家族たちが乱流のように入り乱れ、入り交じり、駅舎はしばし騒然となる。
いち早く互いを確認し、名を叫びながら転がるように駆け寄り、腕をつかみ、再会を喜び会う人たちがいる。愛する者の姿を捉えようと何度も何度も人群れに視線を巡らせる人たちもいる。—
恐らくそんな光景が展開されていた広島駅で和男を待っていたのは、小学校時代の恩師・児玉秀一氏でした。