西﨑登が印刷業に乗り出すことを決意したもう一つの背景は、「紙の統制」ではなかったかと考えられます。
前回述べた「国家総動員法」で、紙は統制品に指定され、生産は「洋紙共販株式会社」、元売りは「日本洋紙元売商業組合」に一元化されました。それでもしばらくの間は、統制をかいくぐった紙がある程度流通していたようです。しかし戦局が悪化するにつれ、統制は厳しさを増し、1944(昭和19)年には、紙の製造・販売を統合する「紙統制株式会社」が設立され、紙商(代理店、卸商)の商権は完全に消滅しました。
太平洋戦争が始まる前から、西﨑登がこうした紙業界の行く末を見越していたとは思えませんが、少なくとも商業活動に国家の統制が敷かれるようになった時点で、先行きの厳しさを肌で感じていたであろうことは十分推測できます。
こうした重苦しい時代にあって、西﨑豊の心の支えは長男、和男の存在でした。和男は1920(大正9)年、広島市鷹匠町(現在の中区本川町)に生まれました。広島市商業学校(現在の広島市立商業高等学校)を卒業後、父の片腕として家業を支えていた和男は、1940(昭和15)年、徴兵検査を受け、陸軍に入隊します。
前回述べた「国家総動員法」で、紙は統制品に指定され、生産は「洋紙共販株式会社」、元売りは「日本洋紙元売商業組合」に一元化されました。それでもしばらくの間は、統制をかいくぐった紙がある程度流通していたようです。しかし戦局が悪化するにつれ、統制は厳しさを増し、1944(昭和19)年には、紙の製造・販売を統合する「紙統制株式会社」が設立され、紙商(代理店、卸商)の商権は完全に消滅しました。
太平洋戦争が始まる前から、西﨑登がこうした紙業界の行く末を見越していたとは思えませんが、少なくとも商業活動に国家の統制が敷かれるようになった時点で、先行きの厳しさを肌で感じていたであろうことは十分推測できます。
こうした重苦しい時代にあって、西﨑豊の心の支えは長男、和男の存在でした。和男は1920(大正9)年、広島市鷹匠町(現在の中区本川町)に生まれました。広島市商業学校(現在の広島市立商業高等学校)を卒業後、父の片腕として家業を支えていた和男は、1940(昭和15)年、徴兵検査を受け、陸軍に入隊します。
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