今回より少し視点を変え、「紙」と縁の深い印刷業会の歩みを概観していくことにします。
1871(明治4)年、明治新政府は廃藩置県を断行しました。これは平安時代後期以来続いてきた、特定の領主がその領地・所領を支配するという土地支配のあり方を根本的に覆えすものであり、「明治維新における最大の改革」と言われています。財政的基盤を失った旧藩は家臣を養えず、農工商の職業につかせることを奨励しました。また政府でも、家禄奉還を願い出た士族には就産資金や公債を保証、荒蕪地・山林等の格安払下げなどの制度を設けて救済を図りました。
こうした士族たちを救済するための授産事業の一つが、印刷業でした。1885(明治18)年発行の「広島県勧業第三回年報」には概略以下のような記述があります。
—授産工場(4か所)のうち、印刷業は2か所。従業員40名は全員、困窮した武士である。上半期は繁盛し170円の利益を得たが、下半期は業績が下降しているようだ—
その後、紆余曲折を経ながらも広島の印刷業は発展を続けていきます。1891(明治26)年、広島市内の印刷業者は記録の残っている活版印刷に限れば5社。しかしそれ以後約10年間で10社以上が創業しています。この時期、印刷業が創業ラッシュとなった理由の一つとして考えられるのは日清戦争(1892-1893)です。清国に勝利した日本は賠償金として約3億円、さらにロシア・ドイツ・フランスによる「三国干渉」で遼東半島の譲渡権を放棄した見返りとして約2億円の賠償金を得ます。この5億円を現在の貨幣価値に換算すると、少なくとも3〜4兆円に相当します。産業振興や景気拡大にもかなりの効果があったことは間違いありません。
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