関東軍は、南満州鉄道附属地警備を目的とした守備隊「関東都督府陸軍部」として誕生し、1919(大正8年)に関東軍と改称、満州国建国後は首都・新京(現在の長春)に司令部を置き、同国を実質的に統治していました。
太平洋戦争開戦時には「精強百万関東軍」とされた日本陸軍の最精鋭部隊でしたが、戦況の悪化に伴って兵力を南方に提供し、その穴を埋めるために在満邦人約25万人を「根こそぎ動員」したため、兵数こそ78万人に達したものの、その戦力は到底ソ連の侵攻を食い止め得るものではありませんでした。
8月15日、日本はポツダム宣言の受諾を表明し、無条件降伏します。しかしソ連は正式に停戦が決定されたわけではないとして、侵攻の手を毫も緩めようとはしませんでした。関東軍総司令部がようやくソ連側と停戦交渉にこぎ着けられたのは8月19日のことです。
「戦いは終わった。早く故郷に帰らねば」。恐らく西﨑和男はそう考えたことでしょう。戦いに敗れたことが悔しくないはずはありません。しかし和男には一刻も早く広島に帰らねばならない理由がありました。原子爆弾で広島の町が壊滅的な被害を受けたという情報を、関東軍の将官である和男は、精度はさておき、まず間違いなく知っていたはずです。むしろ詳細な情報が伝わらないからこそ、自分の目で広島の状況を確かめ、家族の安否を確認しなければ…。
しかし和男の願いはかないませんでした。軍人・軍属、在満民間人や満蒙開拓移民団の男性など一説には100万人以上とも言われる人たちが、「戦時捕虜」としてソ連各地の強制収容所に送られたのです。
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