1945(昭和20)年9月。ハバロフスクに集められた65万人(※注1)の男たちが、1000名ほどのグループに分けられ、貨物列車に詰め込まれました。行き先は告げられませんでしたが、ソ連兵たちから「ダモイ(帰国)」と聞かされ、多くの人が帰国できると期待に胸をふくらませたそうです。しかし彼らが送られたのは、ソ連領内各地にある強制収容所(ラーゲリ)でした。ラーゲリは比較的規模の大きいものだけでも約1800所もあったと言われています。
厚生労働省に残る記録には、西﨑和男が収容されていたのは「マルシヤンスク(注2)」であると記載されています。マルシヤンスク収容所はモスクワの南200キロほどの場所にあった最大規模のラーゲリです。ここには日本人捕虜1500名、ドイツ人捕虜1500名が収容され重労働を強いられました。
—収容所のまわりは、厳重な鉄条網が張りめぐらされ、監視哨には機関銃が照準をつけ、おびただしい軍用犬が放し飼いにされているのです。 零下20度の中、腰まで埋まった雪中を山奥まで行き大きな木を切り倒していくのてです。体重65kgが6ヶ月で35kgに下がりました。—
これはマルシヤンスクに収容されていたある人物の手記の一節です。ラーゲリでは、飢えと寒さにより、多くの人が命を落としました(※注3)。
1946(昭和21)年7月、ラーゲリに収容されている軍事捕虜と日本にいる家族との間の交信が条件付きで許可されます。恐らく和男も故郷の家族にハガキを送ったことでしょう。そして過酷な暮らしに耐えながら、何ヶ月も返事を待ち続けたことでしょう。しかし和男のハガキが家族のもとに届くことはありませんでした。和男の父、西﨑登をはじめ家族全員が、原子爆弾により命を落としていたからです。
(※注1)(注3)「65万人」は、現在、一応の定説とされている数です。抑留者総数については200万人(マッカーサー統計等)との説もあります。また、死亡者数についても5.5万人(厚生省社会援護曲発行「援護50年史)から34万人(アメリカの研究者ウイリアム・ニンモ著「検証ーシベリア抑留」)までさまざまな推定がなされています。
(※注2)マルシヤンスクは西崎和男が最後に抑留されていた収容所です。抑留者たちはソ連内の収容所を何度も移動させられ、多い人ではその回数は十数回にものぼったそうです。
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