日米開戦に際し、日本はソ連を敵にまわさないことを戦略の最重要課題とし、1941(昭和16)年4月、日ソ中立条約を締結しました。条約には以下の一文があります。
「本条約は 両締約国に於て其の批准を了したる日より実施せらるべく 且5年の期間効力を有すべし。両締約国の何れの一方も右期間満了の1年前に本条約の廃棄を通告せざるときは 本条約は次の5年間自動的に延長せらるものと認めらるべし」。
条約期間満了の1年前にあたる1945年4月7日、ソ連は「条約延長の意思なし」と日本に通告しました。これは遅くとも1年後にはソ連が対日参戦することを意味します。にもかかわらず日本政府は米英との和平の仲介を秘密裏にソ連に依頼するなど、最後までソ連に望みを託し続けたのでした(※)。しかしその願いはあえなくついえ去ります。
1945(昭和20)年8月9日午前1時前。満州の東端にある虎頭要塞に、豪雨を衝いてソ連軍が怒濤の侵攻を開始します。さらに1時30分頃には満州国の首都・新京上空にソ連機が来襲。また満ソ国境の各地で次々と戦闘が始まりました。押し寄せるソ連軍の総兵数は150万人。迎え撃つ関東軍は70万人。その中に関東軍独立気球隊所属の陸軍中尉、西﨑和男もいたのでした。
※なぜ当時の日本の指導者が、このように不可解な方針をとったのかについては、半田一利氏がその著書「ソ連が満州に侵攻した夏」(文春文庫)において精緻な分析を展開しておられます。戦争を知らない世代の方にこそ、ぜひご一読いただきたい名著です。
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