創立60周年記念パーティの謝辞の中で、西﨑和男は父・登が遺してくれた「信用」という財産について語っています。
「この時、ふと父の言葉を思い出しました。『お前たち子供には財産は残さない。しかし信用という大きな財産は遺してやる』という言葉でした」。
商売、ことに問屋業は信用がなければ立ち行きません。しかし西﨑登から息子の和男に引き継がれた「信用」には、通り一遍のものではない奥行きがあるように思われます。
「六十年の歩み」には、登が針包装紙加工から手を引く際、各方面に礼を尽くした様子が書かれています。
—この事業(針包装紙加工)の将来と、過去の製針業界との結びつきを考えると誰彼(に事業を譲る)というわけにはいかず、(中略)製紙メーカーに依頼することにした。
事情の説明のために、製針業界最古参の横山製針、三代目が継承していた広島製針、(中略)大正七年の創業以来、格別に昵懇であった高橋誠太郎、そして昭和三年三月にわが国最初のミシン針製造所を興した横山勝ら製針業界の指導者のもとを訪れた西﨑登は、絶大な激励と讃辞をあけてかつてない感激を覚えたのであった。—
創業の際、西﨑登は前掲の文中にある製針業のリーダーたちや、広島屈指の豪商・井東幸七から教示を得ています(※前々回のブログ参照)。これらの人々のほとんどは、本川と天満川に囲まれた中州の北部、約1キロ四方のエリア内で事業を営んでいました。恐らくそこには、「京都の町衆」にも似たきめ細やかな関係が形成されていたことでしょう。起業を志した登が、針包装紙加工というニッチな事業を選択したのも、既存の産業と競合せず、協調による共栄をめざすという「町衆的」な発想があったからかも知れません。
「この時、ふと父の言葉を思い出しました。『お前たち子供には財産は残さない。しかし信用という大きな財産は遺してやる』という言葉でした」。
商売、ことに問屋業は信用がなければ立ち行きません。しかし西﨑登から息子の和男に引き継がれた「信用」には、通り一遍のものではない奥行きがあるように思われます。
「六十年の歩み」には、登が針包装紙加工から手を引く際、各方面に礼を尽くした様子が書かれています。
—この事業(針包装紙加工)の将来と、過去の製針業界との結びつきを考えると誰彼(に事業を譲る)というわけにはいかず、(中略)製紙メーカーに依頼することにした。
事情の説明のために、製針業界最古参の横山製針、三代目が継承していた広島製針、(中略)大正七年の創業以来、格別に昵懇であった高橋誠太郎、そして昭和三年三月にわが国最初のミシン針製造所を興した横山勝ら製針業界の指導者のもとを訪れた西﨑登は、絶大な激励と讃辞をあけてかつてない感激を覚えたのであった。—
創業の際、西﨑登は前掲の文中にある製針業のリーダーたちや、広島屈指の豪商・井東幸七から教示を得ています(※前々回のブログ参照)。これらの人々のほとんどは、本川と天満川に囲まれた中州の北部、約1キロ四方のエリア内で事業を営んでいました。恐らくそこには、「京都の町衆」にも似たきめ細やかな関係が形成されていたことでしょう。起業を志した登が、針包装紙加工というニッチな事業を選択したのも、既存の産業と競合せず、協調による共栄をめざすという「町衆的」な発想があったからかも知れません。
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