—紙だけを専門で販売する小売店はごく少なく、小売店のほとんどは雑貨と一緒に、あるいは筆墨などの筆記具、文具、諸帳簿とならべて販売していたから、紙問屋の得意先はむしろ諸官庁であり、印刷、出版業者であった。
商店街の移行(※前回のブログ参照)と紙製品業界の動向を真剣に考えていた西﨑登は、ここで一大決心をした。昭和三年五月のことである。西﨑登はすっかり軌道にのっていた針包装紙加工場の仕事を製紙メーカーに依頼し、西﨑洋紙店としては陸軍、諸官庁の洋紙納入に全力を傾注して洋紙販売一本で進むことをうち明けた。—(「六十年の歩み」より)
1919(大正8)年以降、広島市の針の生産額は最盛時の1/6程度で低迷を続けていました。しかしそうであっても社業の柱の一つである針包装紙加工の事業から撤退するのは、非常な決断と言えます。恐らく西﨑登は、陸軍や諸官公庁との取引に飛躍の可能性を見たのでしょう。
1923(大正12)年9月1日に発生した関東大震災を引き金とする震災恐慌、さらに1927(昭和2)年の金融恐慌で日本は深刻な不況に陥っていました。「民需」によって社業の発展を図ることは困難であると見た西﨑登は、それまでの取引で培ってきた陸軍や県庁をはじめとする官庁との信頼の絆に西﨑洋紙店の未来を託したのでしょう。
商店街の移行(※前回のブログ参照)と紙製品業界の動向を真剣に考えていた西﨑登は、ここで一大決心をした。昭和三年五月のことである。西﨑登はすっかり軌道にのっていた針包装紙加工場の仕事を製紙メーカーに依頼し、西﨑洋紙店としては陸軍、諸官庁の洋紙納入に全力を傾注して洋紙販売一本で進むことをうち明けた。—(「六十年の歩み」より)
1919(大正8)年以降、広島市の針の生産額は最盛時の1/6程度で低迷を続けていました。しかしそうであっても社業の柱の一つである針包装紙加工の事業から撤退するのは、非常な決断と言えます。恐らく西﨑登は、陸軍や諸官公庁との取引に飛躍の可能性を見たのでしょう。
1923(大正12)年9月1日に発生した関東大震災を引き金とする震災恐慌、さらに1927(昭和2)年の金融恐慌で日本は深刻な不況に陥っていました。「民需」によって社業の発展を図ることは困難であると見た西﨑登は、それまでの取引で培ってきた陸軍や県庁をはじめとする官庁との信頼の絆に西﨑洋紙店の未来を託したのでしょう。
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