話はオイルショックの2年前、1971(昭和46)年に遡ります。この年、西﨑洋紙店(現・西﨑紙販売)は福山市に支店を設立します。当時、紙業界では、備後と広島、それぞれの紙卸業者が互いに相手の商圏には進出しない、という不文律があったようです。にもかかわらず西﨑洋紙店が福山に支店を出したのは、得意先の要請に応えるためでした。広島でゴム製品を製造していたメーカー3社が、福山に生産拠点を設けることになり、製品(長靴)の梱包に用いる段ボールを供給していた西﨑洋紙点にも福山に取引窓口を開設するよう求めたのです。
こうした事情から、西﨑和男は備後の紙卸業者との間で「板紙(段ボール)以外は販売しないという紳士協定を結び、福山での営業を開始しました。そのため開設当初は、なかなか業績も伸びなかったようです。その頃、福山営業所に勤務していた助迫政治さんによれば、「こんなに暇で大丈夫か、と心配になるほど暇でした(苦笑)」という状態だったそうです。
そんな状況に変化が訪れたきっかけが、オイルショックだったのです。紙卸業者の中にはオイルショックを「商機」ととらえ、売惜しみや価格のつり上げを図る者もいました。しかし中小の卸商の中には、売惜しみではなく売りたくても在庫が確保できない業者も多数存在したのです。こうした業者に代わって紙を供給することで、西﨑洋紙店は福山においても次第に地歩を固めていきました。
とは言え、西﨑洋紙店も潤沢に紙を確保するのは容易ではありません。限られた在庫をいかに公平に配分するか。西﨑和男がとった方策は「統計の活用」でした。単純に大口の取引先を優先するのではなく、紙の種別ごとに過去の取引実績、売上や利益に対する貢献度を算出し、それに基づいて紙を供給したのです。このやり方は得意先に好評をもって受け入れられました。コネやしがらみを排し、公正に紙を提供することで、和男はオイルショックの混乱を乗り切っただけでなく、信用という目減りしない財産を蓄えていったのでした。
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