若き日の西﨑和男(その3)
■新京の地で
1943(昭和18)年のはじめ頃、和男は満州国の首都・新京(現在の長春)にあった関東軍司令部に着任しました。
関東軍の前身は、日露戦争後にロシアから獲得した関東州租借地(遼東半島)と南満州鉄道(満鉄)の付属地の守備をしていた関東都督府陸軍部で、1919(大正6)年に関東都督府が関東庁に改組されるのにあわせ、関東軍として独立しました。1931(昭和6)年には柳条湖事件(※)をきっかけに中国東北部を制圧して満州国を建国し、同国を実質的な軍政支配下に置いていました。
前回記したように、和男が赴任した頃、満州にはまだ戦火が及んでいませんでした。温和な気候から「北国春城」とも称された新京の地で和男は1年半余り、比較的穏やかな日々を過ごしていたものと思われます。将校には、兵卒とは比べものにならないほどの行動の自由があります。西﨑洋紙店の重要な取引先であった大同洋紙店(現・国際紙パルプ商事株式会社)の新京出張所を訪ねたこともあったと、後年、和男は述懐しています。「この戦争が終わったら、父と共に家業を発展させよう」、そんな思いを胸に抱き続けていたのでしょう。
さて、関東軍司令部で和男が従事していた任務は気象データの収集と分析でした。軍事に気象情報が必要なことは言うまでもありません。戦前の日本では、海軍が「海軍気象学校」を、陸軍が「陸軍気象部」を独自に持っていました。しかし和男が行った気象観測は、一般的なものとは異なる、ある重要な作戦プロジェクトの一環だったのです。そのプロジェクトとは「風船爆弾」の開発でした。
(つづく)
※柳条湖事件/1931(昭和6年)9月18日、奉天(現在の瀋陽)郊外の柳条湖で、関東軍が南満州鉄道の線路を爆破した事件。関東軍はこれを中国側の破壊工作と断定し、それを口実として中国東北部を占領した。
【写真】
新京市内にあった関東軍司令部
(C)1998 MATSUBARA lab.All Rights Reserved.13416: from 20050130
(この写真は松原孝俊・九州大學教授のご好意により掲載しています)
コメント