西﨑和男は「六十年の歩み」の中に、「大正時代の広島商業界」という一項を設け、次のように記しています。
—広島市内の商店街は、大正十年九月に開設された新天地、大正末年には常設夜店を開店した流川通りを中心にだんだん繁華街としての賑わいをみせはじめていたが、昭和四年に福屋百貨店が開業し、東西の新天地が娯楽施設を整えると、堺町、中島町あたりを中心としていた繁栄の渦を東に移行させてしまった。—
この記述の通り、明治から大正中期までの広島市の中心は現在よりも西、元安川西岸から本川を経て天満川左岸までのエリアでした。下に掲載しているのは1919(大正8)年作成の広島市街図です。県庁、市役所は現在のアステールプラザの近くに位置しています。
前々回のブログでご紹介した井東幸七は、塚本町(現在の堺町1〜2丁目、本川町1〜3丁目、猫屋町に居を構えていました。この界隈には大正時代まで、広島を代表する商家が軒を連ねていました。井東幸七は、森川脩三(金融業)、海塚新八(肥料・金融業)、松本清助(肥料・会社役員)とともに、『塚本町の四天王』と呼ばれる広島経済界の重鎮でした。
—広島市内の商店街は、大正十年九月に開設された新天地、大正末年には常設夜店を開店した流川通りを中心にだんだん繁華街としての賑わいをみせはじめていたが、昭和四年に福屋百貨店が開業し、東西の新天地が娯楽施設を整えると、堺町、中島町あたりを中心としていた繁栄の渦を東に移行させてしまった。—
この記述の通り、明治から大正中期までの広島市の中心は現在よりも西、元安川西岸から本川を経て天満川左岸までのエリアでした。下に掲載しているのは1919(大正8)年作成の広島市街図です。県庁、市役所は現在のアステールプラザの近くに位置しています。
前々回のブログでご紹介した井東幸七は、塚本町(現在の堺町1〜2丁目、本川町1〜3丁目、猫屋町に居を構えていました。この界隈には大正時代まで、広島を代表する商家が軒を連ねていました。井東幸七は、森川脩三(金融業)、海塚新八(肥料・金融業)、松本清助(肥料・会社役員)とともに、『塚本町の四天王』と呼ばれる広島経済界の重鎮でした。
井東幸七らの本拠・塚本町と、西﨑和男の父・登が「西﨑洋紙店」の店舗を構えた鷹匠町は目と鼻の先。また西﨑登の本籍地、広島市広瀬町もそのすぐそばです。何らかの交流があったのはむしろ当然と言えるでしょう。
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