広島市の歴史は、臨海地の埋め立てによる市域の拡大を抜きには語れません。
1884(明治17)年に着工された宇品築港事業により、「宇品新開」と呼ばれる広大な埋め立て地が造成されました。1894(明治27)年、日清戦争勃発により、宇品港および宇品地区は兵站(へいたん)拠点として、一躍注目されることになります。広島〜宇品間には軍用鉄道が敷かれ、全国一の規模を持つ缶詰工場「陸軍糧秣支廠」や陸軍運輸部が開設されます。
一方、工業都市として著しい発展を続ける広島市では、製品・原料などの輸出入が行える港のニーズが高まります。これに応えるため、新たな工業港を建設することが1940(昭和15)年、県議会において満場一致で可決されました。この時策定された工業港修築計画には、以下のような記述があります。
『広島市地先即ち現在修築中なる広島商業港に接続し、西方草津町に至る海面に、水路・泊地を浚渫(しゅんせつ)するとともに、広大なる埋立地を造成して工場を誘致し、瀬戸内海中部における総合的大工業港を建設する』。
この事業は県と市が分担して行うこととされました。しかし広島市担当分は太平洋戦争の戦況悪化に伴い、1944(昭和19)年4月に中止。この時中止された広島市担当部分のうち、草津、庚午沖埋め立て事業が、戦後の西部開発、そして商工センター誕生へとつながるのです。
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