1938(昭和13)年に公布された国家総動員法によって紙が統制品に指定され、生産は「洋紙共販株式会社」、元売りは「日本洋紙元売商業組合」に一元化されたことは、以前のブログでも述べました(「紙流通小史(その2)参照)。
印刷業界も「経済新体制の確立」という国の方針に従い、1941(昭和16)年、「日本印刷文化協会」を設立します。その要項には「本会は経済新体制確立要項の趣旨に則り総合的計画経済の一環として日本印刷工業の一元的統制運営を図るを目的とする」とあり、生産統制(新規企業の抑制、設備増設の抑制など)、資財の統制(用紙等の一元的受配、配給割当など)が主な事業とされました。
1943(昭和18)年には商工省が決定した企業整備の要項に従い、印刷業者の転廃業・存続・統廃合が進められました。当時、広島県内には384の印刷業者がありましたが、1943年の企業整備、さらには印刷機械や活字の供出、紙などの資財不足によって実に半数以上の189社が廃業を余儀なくされています。また広島市内ではオフセット業者15社が企業整備によって合併し、「広島印刷」となります。この広島印刷は戦後「広島図書」と改称し、児童向け雑誌「ぎんのすず」を発行してその名を全国にとどろかせますが、これについては次稿で詳しくご紹介しましょう。
コメント