1948(昭和23)年当時は、まだ戦前からの紙の販売統制が続いていました。しかし砕木パルプや古紙を原料とする低品質の紙「仙花紙」は、統制から除外されており、新聞社、出版社を中心に需要が急増し、「仙花紙ブーム」が巻き起こりました。仙花紙を仕入れさえすれば、飛ぶように売れる。そんな状況の中で、和男は順調に業績を伸ばしていきます。
1950(昭和25)年5月には、資本金40万円で(株)西﨑洋紙店を設立。社長には和男の従兄弟にあたる西﨑泰憲が就きました。和男の父、登は男三人兄弟の次男にあたります。登たち三人兄弟が力を合わせて営んでいた西﨑紙販売を再興するにあたり、和男が長幼の序を重んじて長兄の息子である泰憲に社長職を譲ったものと思われます。
社員は、和男、泰憲、そして和男のもう一人の従兄弟マサトシ(漢字不詳)、和男の義弟・櫻井親(現・広島洋紙会長)。親戚以外では、和男の新兵時代の班長だった人物や、泰憲が炭坑で働いていた時の同僚など数名がいるだけの小さな会社でした。
1949(昭和24)年6月、和男は櫻井享子と結婚。翌年には長男、さらにその翌年には次男・富雄(現・西﨑紙販売社長)が誕生します。恐らく和男は公私ともにきわめて充実した日々を送っていたことでしょう。
当時の和男の印象を、丸大洋紙店(現・丸大紙業)相談役、的場謙氏は、次のように語っておられます。
「私が西﨑和男さんに初めてお会いしたのは、昭和25年、私が新米社員として丸大紙業大阪本店に勤務していた時のことです。西﨑さんは年もお若く、新進気鋭の社長さんと見受けられました。当時、広島—大阪間の移動は夜行列車でしたが、早朝、来社された西﨑さんは疲れも見せず、広島弁で能弁に語っておられました。雑納に札束を一杯つめて来られたのが記憶に残っています」。
和男の意気軒昂たる様が目に浮かぶようです。また、「雑納一杯の札束」に、戦後の余韻がまだ色濃く残る、騒然とした時代の空気が感じられます。
《仙花紙》って今もあるのでしょうか?
投稿情報: 風 | 2008年5 月 2日 (金) 10:33
今も和紙専門店等で扱われているようです。弊社でも数年に一度ご注文がある程度になってしまっていますが。。。
投稿情報: ohe | 2008年5 月 2日 (金) 15:54