西﨑紙販売で100周年記念事業を担当しておられる方から、「広島の超覚寺は“超”なのに、母寺である和歌山の長覚寺は“長”なのはなぜでしょう?」というお話をいただきました(※超覚寺についてはこのブログの2007年9月を参照のこと)。なるほど、至当な疑問です。そこで広島の超覚寺、和歌山の長覚寺、さらには浄土真宗大谷派の本山である本願寺に問い合わせてみました。
広島の超覚寺さんは、「そのあたりの経緯はわかりません。ただ、大阪府堺市には、当寺の先代と同じ北畠姓の方が住職をつとめる真宗大谷派のお寺が三カ寺あるようです」と教えてくださいました。次に本願寺さんからは「超覚寺の縁起等の資料を調べてみましたが、参考になる記述は見当たりませんでした」と丁寧なお返事をいただきました。また和歌山の長覚寺については「当派に該当寺院がないため資料がございませんでした」とのことでした。長覚寺は、同じ浄土真宗でも、大谷派(お東さん)ではなく本願寺派(お西さん)だったのです。
和歌山の長覚寺のご住職によれば「当寺はもともと真言宗でした。室町時代、浄土真宗中興の祖としていられる蓮如(1415〜1499)に帰依し、浄土真宗に宗旨替えしたと聞いています」。ちなみに本願寺の東西分裂は1602年、徳川家康が「東」に寺領を寄進した時点で決定的となったのですが、浅野家が和歌山から広島に国替えになった江戸初期には、長覚寺は本願寺派(お西さん)に属していたようです。
ではなぜ広島の超覚寺は「母寺」と異なる派に属したのでしょう。ご住職によれば、紀州の真宗のお寺はほとんど本願寺派。和歌山県内にある北畠姓のご住職がおられる二カ寺も“西”とのこと。一方、広島も“安芸門徒”という呼称で知られる“西”の有力な国。そこに入封する際、浅野氏は、“東”に肩入れして豊臣家と縁の深い(西)本願寺の勢力を削ごうとする徳川家康の意を汲んで、あえて超覚寺を“東”にしたのでは、というのがご住職の推理です。「長」を「超」に変えた背景にも、このあたりの経緯が何らかの形でからんでいるのかも知れませんが、今となっては調べるすべがありません。長覚寺は元禄の頃の火事で全焼し、それ以前の文書もことごとく灰になってしまったそうです。
結局、謎は解けずじまい。しかし、ふとした疑問から歴史を遡ってみると、意外な発見や人と人との不思議な縁(えにし)が見えてくるものです。
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