1872(明治5)年2月、東京・日本橋蠣殻町で創業した「有恒社」。これが日本で最初の洋紙メーカーです。有恒社はイギリスの製紙機械と技術を導入し、1874(明治7)年7月から操業を開始しました。
有恒社を設立したのは、浅野長勲。安芸広島藩の最後の藩主であり、明治維新後、元老院議官やイタリア公使、貴族院議員を務め、1884(明治17)年に侯爵に列せられました。その後も広島県内における諸事業の支援や各種産業の開発援助などに努め、「最後の殿様」として人々から敬愛された人物です。
日本有数の和紙産地の殿様が、日本で最初の洋紙メーカーを設立したというのは、歴史の皮肉と言うべきか、それとも浅野長勲の先見性を物語るエピソードと言うべきか、なかなか含蓄のある史実です。
有恒社が開業した翌年の1875(明治8)年には、蓬莱社製紙所(大阪・後藤象二郎)、抄紙会社(東京王子・渋沢栄一)というように、明治7年〜9年にかけて5つの製紙メーカー次々と操業を開始しました。このうち現在も存続しているのは、抄紙会社から社名を変更した日本最大の製紙メーカー、王子製紙のみです。有恒社は1906(明治39)年、浅野家の手を離れ、後に王子製紙亀有工場として第二次世界大戦末期まで操業を続けました。
ところで大正時代の中国新聞には、次のような文面の広告が時折掲載されています。
『拙者儀 出発ノ際ハ遠路御見送被下添ク爰ニ新聞紙ヲ以テ御挨拶申連候 侯爵 浅野長勲』(拙者儀、出発の際は遠路お見送り下されかたじけなく、ここに新聞紙をもってご挨拶申し上げ候)
知事をはじめとする顕官や広島在住の将校、さらには市民たちもが紋付袴や燕尾服に身を包んで広島駅のホームに集まり、敬愛する「最後の殿様」をお見送りしている姿が目に浮かぶようです。
と同時に、わざわざ新聞広告で見送りのお礼を述べる生真面目さ、しかもその生真面目さが貴人ならではのユーモラスで好ましい風格を醸し出しているあたり、浅野長勲はなるほど「最後の殿様」と呼ばれるにふさわしい人物であったろうと思わせるものがあります。
(写真説明)
大正時代の新聞広告
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