西﨑和男は1920(大正9)年、西﨑登とアサヨ夫妻の長男として、広島市鷹匠町(現在の中区本川町)に生まれました。父・登は、兄と弟と共に1914(大正3)年、縫針用包装紙の加工販売を行う会社、西﨑洋紙店を創業、これが現在の西﨑洋紙店の始まりです。
当時、広島は日本屈指の縫針生産地でした。1914(大正3)年に第一次世界大戦が始まると、広島の製針業者は海外へも販路を広げ、一大活況を呈します。西﨑洋紙店も事業を拡大し、1922(大正11)年には、広島市広瀬北町(現在の中区広瀬北町)に工場と倉庫を新築し店舗移転しました。西﨑紙販売が1978(昭和53)年に西区商工センターに新社屋を建設、移転した時、和男は「これでようやく父親(登)と同じ規模の会社にすることができた」と述懐したそうです。和男の脳裏には、若き日の家業の隆盛ぶりが強く焼き付いてたのでしょう。
1932(大正7)年、和男は広島市商業学校(現在の広島市立商業高等学校)に入学。学校時代商業学校時代は野球部に所属し、レギュラーとして活躍し、卒業後は家業に従事します。その頃の西﨑洋紙店は、縫針用包装紙の製造を止め、洋紙卸販売と官庁専用印刷業を行っていました。1920年頃から、第一次大戦の敗戦国・ドイツの工業生産力が回復し、ドイツ製の縫針が再びアジア諸国に出回るようになり、広島の製針業にかげりが見えたことも理由の一つだったと思われます。
1940(昭和15)年、20歳となった和男は徴兵検査を受け陸軍に入隊します。和男自身から若き日の回想を直接聞いたことのある方の一人は、「和男さんは51連隊に入隊した」と話して下さいました。「51連隊」に該当するのは栃木県にあった第51師団内の「捜索第51連隊」「工兵第51連隊「輜重兵第51連隊」の3つです。しかし当時、徴兵された人たちは原則として本籍地の師団に入隊していましたから、「51連隊」とは、広島にあった第5師団・第11歩兵連隊のことかも知れません。
(つづく)
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