八丁堀から広島電鉄白島線沿いに数分歩くと、左手に一軒のお寺が見えてきます。林鴬山憶西院超覚寺。ここに西﨑家の墓所があります。
超覚寺は浄土真宗の名刹です。元和5(1619)年、紀州藩主・浅野幸長が安芸に国替えとなった時、和歌山城下にあった超覚寺の僧侶たちも行を共にし、広島城京口御門の近くに三千坪の土地を与えられ、超覚寺を興しました。
大手門付近にあった国泰寺が浅野家の菩提寺であったのに対し、超覚寺は上級藩士の菩提寺としての役割を担っていました。代々家老として藩主に仕え、「武門ノ茶」上田宗箇流の宗家として知られる上田家には、江戸時代に超覚寺の住職から宛てられた手紙が幾通も残っているそうです。
超覚寺の歴代住職の姓は「北畠」でした。北畠家は村上源氏中院家から分かれた名門で、その子孫である中院雅家が洛北の北畠に移ったことから北畠を名乗るようになりました。鎌倉末期の北畠家当主・北畠親房は後醍醐天皇に仕えて建武の新政を支え、南北朝の動乱期、南朝の思想的・軍事的指導者として活躍しました。
その末裔の一人が西﨑紙販売の前身・西﨑洋紙店の創業者・西﨑登の父、尚丸です。尚丸は文久3(1863)年、超覚寺で生まれました。嗣子でなかった尚丸は、有力な檀家の一つである西崎家の養子となります。
尚丸の生涯については、現段階ではほとんど情報が得られていません。ただ、北畠の血をひく者としての矜持を終生抱き続けていたようです。
大正7(1918)年、尚丸は55歳の生涯を閉じました。その魂は「父祖の地」である超覚寺の一角で、子や孫たちと共に、安らかな眠りについています。
コメント