前回、超覚寺がかつては三千坪もの寺域を持っていたことを記しました。現在のご住職によれば、超覚寺と国泰寺が広大な寺域を与えられたのは、戦が起きた時、兵を駐屯させる役割も担っていたからではないか、とのことです。
天下太平の江戸時代、超覚寺の境内に兵馬がひしめくことはありませんでした。しかし明治維新を境に状況は一変します。明治6(1873)年、広島城内に陸軍第5軍管広島鎮台が設置されました。明治27(1894)年には、日清戦争勃発を機に大本営が広島に移され、明治天皇来臨のもと、臨時帝国議会が開催されます。こうして広島城は日本有数の軍事拠点となり、広島は「軍都」としての性格を強めていったのです。
昭和6(1931)年の満州事変勃発以後、日本は戦争の泥沼にはまり込んでいきます。太平洋戦争が始まると、超覚寺も陸軍の上級将校に宿舎を提供するようになりました。ご住職の奥様が伝え聞いたところでは、毎朝、広島城にある軍司令部から迎えの馬がよこされていたそうです。昭和20(1945)年の朝も、いつもと同様に数頭の馬が超覚寺境内に繋がれていました。そして8時15分、原子爆弾投下。地獄絵図の一隅には、黒こげになったあわれな馬の姿もあったのです。
無論、超覚寺も灰燼に帰しましたが、寺の宝として“疎開”させていた過去帳は消失を免れました。400年に及ぶ過去帳は、歴史的にも貴重なものです。先年、ある大学の研究グループがこの過去帳の存在を知り、閲覧にやってきたそうです。
原子爆弾ですべてが消失したとされる広島の都心に、数百年の時をつなぐ「ミッシング・リング」が現存していることに感慨を禁じ得ません。
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