—西﨑洋紙店は幸運にも開業半年を経過しないうちに投下した資本の十数倍の利益を計上し、洋紙の納入、販売のための人員を六名、包装加工の女工職員を延べにして数十人も抱えるほどの企業に発展していった。—(「六十年の歩み」より)
「幸運」とは第一次世界大戦による縫針輸出の急増を指します。それまでドイツ、イギリス、ベルギーの針が独占していた海外市場から大量の縫針の注文が日本に寄せられ、広島の製針業は空前の活況を呈したのです。「六十年の歩み」には以下の記述が見られます。
—大正五年、六年、七年、八年と広島の縫い針は特産品としてアジア市場を支配し、逆にイギリス、ドイツの世界市場へ肉薄する勢いを示したが、大戦後の大正九年には早くも五十万円台の生産額に激減し、戦後の不況をもろにかぶってしまった。—
広島の縫い針生産の最盛期、1917(大正7)年の生産額は390万円。それが1919(大正9)年には58万8千円と約1/7に落ち込んだのですから、その深刻さは相当なものです。
こうした中、西﨑洋紙店は、針の包装加工紙の売上げの落ち込みを洋紙販売でカバーすることで不況を乗り切ります。
—戦後の文化思想の発展は紙類の生産を不況しらずといわせるほど活発にさせ、紙製品の増加はもちろんのこと、印刷・製本業もともにめざましい躍進をみせたから、この方の利益は悠々に製針不況の不利を補って余りあるものであった。—(「六十年の歩み」より)
「幸運」とは第一次世界大戦による縫針輸出の急増を指します。それまでドイツ、イギリス、ベルギーの針が独占していた海外市場から大量の縫針の注文が日本に寄せられ、広島の製針業は空前の活況を呈したのです。「六十年の歩み」には以下の記述が見られます。
—大正五年、六年、七年、八年と広島の縫い針は特産品としてアジア市場を支配し、逆にイギリス、ドイツの世界市場へ肉薄する勢いを示したが、大戦後の大正九年には早くも五十万円台の生産額に激減し、戦後の不況をもろにかぶってしまった。—
広島の縫い針生産の最盛期、1917(大正7)年の生産額は390万円。それが1919(大正9)年には58万8千円と約1/7に落ち込んだのですから、その深刻さは相当なものです。
こうした中、西﨑洋紙店は、針の包装加工紙の売上げの落ち込みを洋紙販売でカバーすることで不況を乗り切ります。
—戦後の文化思想の発展は紙類の生産を不況しらずといわせるほど活発にさせ、紙製品の増加はもちろんのこと、印刷・製本業もともにめざましい躍進をみせたから、この方の利益は悠々に製針不況の不利を補って余りあるものであった。—(「六十年の歩み」より)
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