西﨑和男が広島市東雲町(現・南区東雲町)にあった親戚の家を拠点に家業を再興したのは1948(昭和23)年のことでした。当時、和男は28歳。翌1949年には櫻井享子と結婚。さらに1950年には西﨑洋紙店を株式会社として登記(資本金40万円)。和男の従兄弟である西﨑泰憲に代わり、代表取締役に就任します。また本社を広島市己斐町(現・西区己斐町)に移転し、製袋工場を併設します。
とは言え、事業は決して順風満帆だったわれではありません。1949(昭和24)年3月、GHQ(連合国最高司令部)は、デトロイト銀行頭取ジョゼフ・ドッジの立案・勧告に基づき、日本の経済安定に関する9原則を公表しました。いわゆる「ドッジライン」です。これにより戦後の狂乱的なインフレーションは終息しましたが、国内の需要は停滞し、デフレーションが進行します。
こうした状況下、和男も非常に苦労したようです。新たな販路を開拓しようと、大阪でザラ紙を仕入れ、それを袋に加工し、遠く青森まで足を伸ばしたこともありました。リンゴ農家に虫除けの袋として購入してもらおうという目論見でしたが、これは失敗に終わりました。また1953(昭和28)年には、大口取引先だった印刷会社が倒産。西﨑洋紙店の経営も深刻な危機に陥ります。
和男はこの時のことを、後年、次のように回想しています。「(西﨑洋紙店は)順調に進展したとは言えません。数多くの困難にぶつかりました。昭和28年の1月から11月まで、毎月連続して(取引先から)不渡りを受け、一時は危機一髪のところまで追い込まれました」。
さらにプライベートでも不幸が和男を襲います。1955(昭和30)年4月、長男・公和が、広島市内を流れる天満川で開催されていたボートレースを見物に行き、誤って川に落ち、そのまま帰らぬ人となったのです。
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