和男が公私にわたる苦境を乗り越え、西﨑洋紙店がようやく軌道に乗ったのは、1957(昭和32)年以降のことでした。その年の10月には、広島市比治山町(現・南区比治山)に本社を移転、隣接地に倉庫を新設します。比治山の社屋は1964(昭和39)年に鉄筋工クリート3階建てのビルに建て替えられ、1978(昭和53)年、商工センター(広島市西区)に移転するまでの約20年間、本社として使用されました。
比治山の旧本社の近くで長く営業している酒店のご主人は、本社ビル建設当時の様子を次のように語って下さいました。
「当時、この界隈では珍しい、立派な鉄筋コンクリートのビルでした。社員も若い人が多かったたですね。元気に声をかけ合いながら、大きな紙の束をトラックに積み込んでいる姿をよく見かけたものです。皆さんいい人で、うちの店にもよく買い物に来てくれました。何人かの方とは、会社が商工センターに移転してからも、ずっとお付き合いが続いています。実はうちも、西﨑さんの“お得意さん”だったんですよ。と言っても、店で使う包装紙を買わせてもらっていた程度のことですが(笑)」。
事業の発展に伴い、和男の公的立場も次第に重いものとなっていきました。1961(昭和36)年には広島県洋紙商連合会の副会長、1966(昭和41)年には日本洋紙商連合会副会長、さらに翌67年には広島県洋紙商連合会会長に就任。こうして紙卸商関係の役職を歴任する一方で、1960(昭和35)年には、広島鯉城ライオンズクラブに入会します。