広島が大正期以降、世界有数の針生産地であったことは何度もご紹介しましたが、実は「紙(ことに洋紙)」も、広島と深い関係があります。
かつて広島県大竹市は和紙の一大産地として全国に知られていました。江戸時代、中国山地から安芸と周防の国境だった小瀬川(安芸国の側では木野川〈このかわ〉と称していました)を下って運ばれた良質の楮(こうぞ)を使い、大竹では和紙作りが盛んに行われていました。当時、和紙はどの国でも藩の専売品でした。芸州浅野藩でも大竹和紙を専売品とし生産を奨励していました。つまり、和紙も針と同様、藩財政を支える重要産品の一つだったわけです。
明治時代に入って専売制が廃止されると品質の低下が起こり、生産は一時縮小します。しかし、明治43(1910年)に、大竹町製紙組合が設立されたのを機に技術の改良、品質の改善などが進み、大正の中頃には、大竹の和紙は作りは最盛期を迎え、手漉き和紙業者は1000軒を数えたそうです。
一方で大正時代を境に、紙の主流は「和紙」から「洋紙」へと移ります。
紙生産額中に占める和紙の割合は、1873(明治6)年・100%、1897(明治30)年・80%、1907(明治40)年・61%と下落し、1912(大正元)年、ついに50%となり、以後衰退の一途をたどります。ちなみに現在、日本国内の紙の生産量は約3000万トンですが、和紙の占める割合はわずか0.3%です。無論、こうした数字だけで和紙と洋紙に優劣をつけることはできません。和紙、なかでも手漉き和紙が、その卓越した保存性や独特の風合いで、世界的に高く評価されているのはご案内の通りです。
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