■業績拡大
西﨑洋紙店の開業当初、社長は登の兄でした。その後兄(名前は現時点では不詳)が死去し、次男の登が社長となります。登の社長就任がいつ頃のことだったのかは不明ですが、西﨑和男が物心ついた頃には、すでに登が社長であったと推測されます。
西﨑紙販売創業60周年の挨拶で、和男は次のように述べています。「西﨑紙販売KKは、私の父西﨑登が大正3年3月に西﨑洋紙店として発足したのであります」。式典のスピーチゆえ、創業の経緯を簡略化して述べたとも考えられますが、和男にとって西﨑洋紙店は、父・登の会社、少なくとも登が刻苦勉励して築きあげた会社であるという意識があったことは間違いありません。
さて、西﨑三兄弟に創業を促した「針景気」は、第一次世界大戦の終結によって終わりを告げました。1918(大正7)年、390万円に達した広島市内の針生産額は、翌年には4分の1(108万円強)、さらに次の年には58.8万円と、第一次大戦前の水準ま落ち込みます。また、世界的な戦後恐慌のあおりを受け、1920(大正9)年には紙の価格も4分の1に急落しました。針の包装紙を主力商品としていた西﨑洋紙店も、当然、経営危機に見舞われたと推測したくなります。ところが意に反して、西﨑洋紙店はこの時期、事業を拡大したのでした。1922(大正11年)、登は広島市広瀬北町に針の包装紙加工工場を新設します。西﨑洋紙店は開業からわずか8年で、縫針用包装紙市場におけるシェアを急速に拡大したことが伺われます。
※大正時代の貨幣価値について
米価で換算すると、大正時代の1円は、現在の7,700円程度に相当します。従って最盛期(1918年)の広島針の生産額は390万円×7,700=300億3000万円ということになります。
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