■故郷の家族(vol.1)
ところで、西﨑和男が満州にいた頃、ふるさと広島の家族はどのような暮らしを送っていたのでしょうか。
1938(昭和13)年4月、総力戦遂行のため国家のすべての人的・物的資源統制運用権を政府に与える国家総動員法制定が公布され、統制物資である洋紙の生産・流通・販売の自由は大きく制限されることになりました。この年の10月、西﨑洋紙店(現・西﨑紙販売)は、活版印刷機6台を導入し、官庁専用印刷業を開始しています。これは、洋紙販売の先行きに不安を覚えた西﨑登(和男の父)が、印刷業に新たな活路を見出そうとしたものとも受け取れます。
実際、紙販売の統制は戦争の拡大、戦局の悪化、物資の不足とともに厳しさを増していきます。1941(昭和16)年12月には「紙配給統制規則」が公布されます。1943(昭和18)年5月、商工省から「都道府県洋紙商業組合員整備要項」が通達され、全国の約1500店の洋紙店が半数以下の446店に統合されました。さらに1944(昭和19)年4月には「紙統制会社」が設立。これにより紙の代理店、販売店の卸売業務はすべて消滅し、単に統制会社に従属する各都道府県別の洋紙統制組合員として、配給業務のみを行うことになったのです。いわゆる“商権消滅”です。和男が少年時代に見た西﨑洋紙店の繁栄ぶりは、この時点では「帰らぬ思い出」となっていたのです。
1944(昭和19)年11月に入ると、米軍による日本本土への空襲が本格化します。東京、大阪、名古屋といった大都市はもちろん、地方都市も次々と標的になりました。広島県内でも、呉、福山、大竹が空襲されましたが、不思議なことに日本陸軍の超重要拠点であり、当時全国で7番目の人口を擁していた広島市は、散発的な小爆撃にしか見舞われていませんでした。市民たちは「アメリカには広島移民が多いから、空襲がないのだろう」などと憶測を巡らしていたそうです。
コメント