■故郷の家族(vol.2)
和男の父、西﨑登の人となりに関しては、想像を巡らす他ありません。原子爆弾によって、一切のものが消失してしまったからです。ただ一つだけ、登の心を今に伝えるものがあります。それは父、登が和男に渡した手紙です。
手紙は「我が家の柱石として一家の運命を双肩に荷ひて重責を自覚して奮励自重 戸主として弟の養育上師長たり且つ模範たれ」という言葉ではじまり、便箋三枚に綴られています。その筆跡は万年筆で文字を書き慣れた人のものであり、文章からは相当の教養を備えていたことが伺われます。
この手紙が書かれたのは、和男が満州へ赴く直前(1942〈昭和17〉年末頃)であると推測されます。文中に「我れ貧にして各自に相当の財を残さざるも もっとも貴重なる遺産は健全なる血流と自活をなすの気力たるを知る可し」という記述が見られるからです。家業が隆盛であった時期に書かれたものならば、「我れ貧にして」とは書かなかったでしょう。戦時経済下、商業活動の自由が厳しく制限され、西﨑洋紙店の先行きを悲観していた登にとって、子供たち、なかんづく長男の和男こそ、唯一の希望の光だったのかも知れません。
さて、この手紙で目をひかれるのは、その便箋のデザインです。レターヘッドに宮島の大鳥居の写真と「NISHIZAKI YOSHI-TEN」のロゴタイプがあしらわれた西﨑洋紙店オリジナルの便箋は、非常にモダンで洒落た印象を与えます。筆者はこの便箋をデザインしたのが、登自身ではないかとの思いを抱いています。それは便箋のデザインと輸出用の縫針の包装箱のデザインに何かしら共通するものを感じるからです。
そこで次回は、少し時代を遡り、西﨑洋紙店創業当時、大正時代の広島を訪ねてみようと思います。
【左は西﨑洋紙店の便箋のレターヘッド。右は輸出用縫針の包装紙(クリックすると画像が拡大されます】