■「針バブル」のさなかで
針作りは広島が誇るの伝統産業の一つです。広島の縫針製造の始まりは寛永年間(1620年頃)とも宝永年間(1700年頃)とも言われています。藩主の浅野氏は縫針を専売品とし、製造を奨励しました。広島の針は京、大阪、江戸の問屋へと運ばれ、「みすや針」(高級針の代名詞)の名を冠して全国各地で販売されました。
明治時代になっても針作りの伝統は受け継がれました。1896(明治29)年にはドイツの製針機の一部を導入し、機械生産が始まります。
1914(大正3)年7月に始まった第一次世界大戦をきっかけに、広島の製針業は飛躍的に発展します。それまでドイツ、イギリス、ベルギー産が独占していた海外の針市場から大量の注文が舞い込んできたのです。1912(大正元)年に5万円ほどだった広島市内の針生産額は、生産がピークに達した1918(大正7)年には400万円近くまで急上昇します。わずか6年で80倍の成長は驚異と言うほかありません。当時、広島市内でも針製造が特に盛んだった広瀬町、横川、三篠あたりは、さながらバブル期のような異様な熱気に包まれていたことでしょう。この時流に乗って一旗あげようと狙う人たちも少なくなかったはずです。しかし針製造には相当な設備投資が必要です。また、熟練の職人も確保しなければなりません。
手早く「針景気」の余録を得るには…。そう思案をこらし、西﨑家の兄弟たちが得た結論が、「紙」だったのです。
おおよそ「商品」して市場に出回るもののほとんどは、大なり小なり「包装」を必要とします。塩化ビニールの存在しなかった大正時代、包装に使われるものといえば、紙をおいて他にはありません。ことに針の場合、錆を防ぐための「防錆紙」から、大ロットの針を入れる固紙箱まで、様々な紙容器を必要とします。これに着目した西﨑家の三兄弟は、1914(大正3)年、西﨑洋紙店を開業します。
コメント